Interview

Atsuko Anzai -後半 パリ編-


―後半 パリ編―

―パリに移住されたのはいつ頃ですか、そしてなぜパリを選んだのでしょうか?
安斉:1964年5月5日、東京オリンピックの年、28歳の時にヨーロッパへ出発しました。友人が「ポルトガルに住んでいる両親に会いに行くので一緒に来ない?」と誘ってくれたことがきっかけです。東京オリンピックに関するデザインの仕事がちょうど終わってホッとしたところだったので、休暇のつもりでした。
当時はグラフィックデザインの世界で仕事をしていたせいもあって、ニューヨークへ行くことしか考えていませんでした。日本ではリアルタイムでフランスのヌーベルバーグの映画を楽しんでいましたが、光と影が美しいおしゃれなパリの街を自分に関係付けて考えたこともありませんでした。だからパリを選んだのではなく、運命の糸に引き寄せられた気がします。

―パリではどんな方と出会い、どのようなお仕事をされていたのですか?

安斉:グラフィックデザイナー、ガラス焼き物クリエーター、名誉ソムリエという多彩な顔を持つ麹谷宏さんは高等学校の同窓生です。67年に麹谷さんもパリで暮らしていて、彼の友人の紹介で「マフィア」に入社しました。「マフィア」とは、スタイリングの企画と宣伝の二つの部門をもち、世界のファッション動向に影響力を持っていたデザイナースタイリスト集団です。
この事がグラフィックデザインからファッションの仕事に変わる転機になりました。当時の先輩スタッフには、空間クリエーターのアンドレ・プットマン、後にELLE誌の編集長になるニーナ・ドーセ、のちのVOGUE誌編集長になるコロンブ・プラングル、テキスタイルデザイナーのリロ・グロス達。美しく個性豊かで優秀なスタッフたちが勢ぞろいでした。社長のマイメ・アルノダンには言葉のできない私に実力以上のいい仕事のチャンスを与えていただきました。
「マフィア」ではクリエーター達の仕事もさることながら、皆がエネルギッシュに人生を謳歌している生き方に感動しました。オペラ、テアトル、コンサート、展覧会、映画は勿論、ヴァカンス、旅行にと、どんどんと出掛ける。会社も寛大で私が夏休みに帰国することを知ったマイメは「うんと楽しんでいらっしゃい」と旅費とお小遣いまで頂きました。太っ腹なマイメでした。「マフィア」で「人生を謳歌すること」、そしてそこで得た感動体験を仕事に反映させていくコツを学んだ気がします。



―高田賢三さんとの印象的なエピソードがあれば教えてください。

安斉:パリに来て最初に出来た友人がKENちゃん(高田賢三さん)です。それまでに出会った誰とも異なるエスプリを身体中に漲らせていて一瞬にして魅了されました。二人とも殆ど同じ時期にパリに住み始めたのにKENちゃんは私の知らない事をいろいろ知っていました。どこそこのステーキがおいしいからとか、どこの地中海料理食べに行かない?と誘ってくれるし、ファッション・モデルや映画スターが来るプライベート・クラブにも連れて行ってもらいました。ある日の夕方、突然車を飛ばしてドービルのカジノに行ったこともあります。モロッコ旅行、ローマ旅行にも一緒に行きました。そして、どこへ行ってもKENZO, KENZOとすでにスーパースター並の大人気者でした。
その後1970年にKENちゃんに誘われてパリのブティックjungle japの立ち上げに参加することになります。その時「マフィア」の社長のマイメに相談したら「私達はできるだけバックアップするから、大いに頑張ってやりなさい」と言われて最初のショーの時もジャーナリストのリストを全部用意して、電話までかけていただきました。


―東京やパリで過ごしたご友人たちとの印象に残るエピソードなどがあれば教えてください。

安斉:1970年にパリにブティックjungle japをオープンした時に若いスタッフとしてイリエ君(入江末男さん)と、クミ(久保公美子さん)が日本からやって来ました。イリエ君は細くて背が高くて長沢節さんが描く少年のようでした。クミは潤んだくりくりの目と、ぷっくりの唇を持った仔猫のような少女でした。私たち3人はすぐにピーンと惹かれ合う物を感じて、意気投合しました。仕事の後カフェ・フロールで落ち合って、ディスコやレストランヘ行くか、私の家で衣装箱をひっくり返しておしゃれごっこは日常的でした。 あるクリスマスホリデーに、モロッコのサハラ砂漠に行くという、KENちゃん、マネージャーのジル、モデルのキャロル達にクミと私も誘われました。KENちゃんの運転で標高3000メートルのアトラス山脈をくねくねと蛇行している時に、視界不良で、あわや転落!! しそうになったこともありました。
友人たちと過ごしたエピソードはいっぱいあり、それだけでも一冊の本が書けそうです。
そのころ、KENちゃんを通してケンゾーさんの文化服装学院の同級生だったジュンコ(コシノ・ジュンコさん)と親しくなりました。既にジュンコと宇野亜喜良さんはお友達だったので、宇野さん、ジュンコを通してズズ(安井かずみさん)をはじめファッション界、芸能界、文化人たち、70年代に日本で活躍していたその時代の寵児の方たちとも知り合うことになりました。
グラフィックデザイン時代の友人たちに加え、パリに住み始めてからは「マフィア」社のスタッフや、その友達の友達という風に交友関係も一気に多彩にインターナショナルになっていきました。イリエ君とは、studioV, パリのブティック IRIE と仕事も一緒にして、公私にわたって、もう家族のような存在です。
そして、その後、日本に帰ってデザイナー、コーディネーター、ディレクターとして活躍中のクミの推薦で、今回の、PASS THE BATONに出品するきっかけになりました。





―安斉さんにとってパリとはどんな街でしょうか?

安斉:自由で個性豊かな小粋な街。60年代のジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ジーン・セバーグ、アンナ・カリーナなどヌーベルバーグの女優たちのファッションとコケティッシュなチャーム。時代はもっと遡りますがピカソ、モディリアニ、マン・レイ、ジャン・コクトー、シャネル、フジタたちクリエーターたちの生き方、人間的魅力がパリのイメージでした。
そして今のパリは? テロが影響して自由なパリが、ちょっと不自由になっています。でもパリの人たちは三色旗を振って、涙を流しながらもマルセイエーズを歌って、テロにめげないでコンサートにも行って、カフェでおしゃべりも楽しんでいます。泣いて、笑って、愛して、ワインを飲んで、議論して、そんな毎日の繰り返しが私にとってのパリです。




―パリでは、どんな風に日々を過ごしていましたか?当時、熱中していたことなどはありますか?

安斉:60年代のロンドンで音楽とファッションとカルチャーが熱狂的に受け入れられた「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれた時代に私はパリのスタイリスト集団「マフィア」に在籍中でした。休暇を利用して同僚たちとよくロンドンへコンサートやショッピングに通ったものです。当時のカーナビーストリートはロックンロールやヒッピーやモッズなどの若者文化の聖地でした。その後私の「ロンドン愛」は止まず、71年にパリ左岸のラスパイユ大通りに自分のアトリエを立ち上げた機会に、思い切ってアシスタント達を連れて一年間限定でロンドンへ移住しました。70年代の初期ロンドンではプログレシブ・ロックやハードロックがまだ主流でしたが、そろそろ変わる節目に来た面白い時代でした。
71年初期のデヴィッド・ボウイのステージや、フアン垂涎ものの72年ロンドンウエンブリースタジアムのロックンロールショーに参加できたこと。セックスピストルズはまだ結成されていなかったけど足繁くマルコム・マクラレーンのお店SEXに通い、パンクミュージック、パンクファッションを体感できたこと。翌年パリへ戻ってきてテキスタイルデザインの仕事に本格的に取り組むことになり、ロンドンでの経験がデザインにも大いに活かされることになりました。




―独特のスタイル、感覚をお持ちですが、ファッションへのこだわりがあれば教えてください。安斉さんにとってファッションとは?

安斉:最近はノーメーク、ノーアクセサリーですが、おかっぱの長い白髪が私のトレードマークです。自分がかかわっていたブランドの洋服は沢山持っていますが、あまりブランドにこだわりません。かわいいとか、着やすそうというだけで衝動買いしてしまう方で失敗も多いです。

―モノを選ぶうえで一番大切にしていることはなんですか?

安斉:素材のいいベーシックでプレーンなセーター。じゃぶじゃぶ丸洗いが出来るTシャツ。サイズぴったりのジーンズ。歩きやすいスニーカー。軽くて暖かいコート。高い安いにとらわれないでファンタジーのあるレースとか、チュールとか、刺繍のあるものとかも好きです。

―これさえあれば良い、というアイテムはありますか?

安斉:特にありません。ミックスも好きで、持っているいろんな素材や色のアイテムをまぜることによって新鮮な表情になることも有ります。

―長年大切にされてきた洋服たちを、今回、PASS THE BATONに出品されようと思ったきっかけはありますか?

安斉:きっかけは1970年にケンゾーさんがパリにブティックjangle japをオープンした時にスタッフとして参加してきて以来の友人・久保公美子さん(PASS THE BATONのご出品者)の推薦です。昨年PASS THE BATON((株)スマイルズ)社長の遠山さんとディレクターの若林さんと3人でパリの我が家までいらして下さいました。その時に二つ返事とはいかなかったのは、不用の洋服は全部ブルゴーニュに持っている田舎の家に置いてあるのでそこへ片付けに行く体力も気力もなかったからです。着なくなった洋服はトランクや段ボール箱に入れて、全部そこの屋根裏に置いてあるので、今夏思い切って見に行きました。物によっては50年前、40年前、30年前の洋服が手付かずのまま。開いてみると一つずつに懐かしいヒストリーが有り、虫食いや長年の劣化で、泣く泣く捨てたものも沢山あります。パリやロンドンでも希少価値のある洋服もあるので、このまま田舎の屋根裏で朽ち果てて行ってしまうより、私のテーストを理解してくださる日本の方たちにpassして、その方たちが新しい価値を見つけてかわいがっていただければ嬉しいと思ったのが理由です。


―今回、出品していただいたアイテムの中で、特に思い出に残っているアイテムはありますか?エピソードやストーリーなどを聞かせてください。

安斉:全てに思い出があって一着ずつにストーリーが有り、その時代が昔の映画を見ているように蘇ってきます。特に私の姉のお下がりの洋服たちはアメリカやパリ直輸入のキラキラとしたフィフティーズの文化を体現していた姉の思い出ですし、JUNGLE JAP初期の洋服、IRIE大理石柄プリントや、花柄プリントの洋服なども全部思い出深いです。 ロンドン時代の思い出、SEXのチェーン付きTシャツとジャケットや、world’s endバッファローコートなどは、今見ても当時の刺激的なムードが鮮明に思い出されます。

―ありがとうございます。安斉さんが体験されてきた60年~70年代の熱狂や、パリのエスプリなども一緒に、しっかりと次の持ち主へ繋げていきたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。
―現在のパリ左岸の安斉邸―
建築家・野田真紅さんに設計をお願いして自宅を改装。
パリ左岸、1800年代の建物の一階、一坪茶室と石壁が特徴のミニマリズムの内装。









c 2013 Y. Kojima, photographe


Interview Atsuko Anzai ―前半 東京編―


Vintage Collection from Atsuko Anzai in PARIS
PASS THE BATON LITTLE PAVILION
2017年1月18日(水) ~

安斉 敦子
Atsuko Anzai

1936年 大阪に生まれる。
1939年 京都の母方の祖父母の家で成長。
1952年 ドイツ・バウハウス式教育をしていた大阪市立工芸高校図案科で、グラフィックデザインの基礎を学ぶ。
1955年 父母兄姉のいる東京の実家へ移転。
1955年 日本のグラフィックデザイン界で主導的な役割を果たしていた、亀倉雄策氏に師事。
1958年 日本のグラフィックデザイン界への登竜門と言われた、日宣美展・奨励賞受賞。
1959年 デザイナーの亀倉雄策、原弘、田中一光らが中心となり設立された、広告・デザイン制作会社の日本デザインセンター設立と同時にグラフィックデザイナーとして入社。
1961年 植松国臣・石黒紀夫との共作「東京オリンピック開催期に於けるThe Japan Timesの1ページ広告に関する提案」で、日宣美展・会員賞受賞
1962年 日本デザインセンター退社・グラフィックデザイナーとして独立。
1964年 オリンピック東京大会組織委員会デザイン室で、東京都歓迎装飾基本デザインを担当。
1964年 5月5日・羽田空港よりフランス・パリへ出発。
1964年 パリ到着後、車を買って1964年~1966年迄の2年間、ポルトガル・スペイン・スイス・イタリア・ロンドンなど各地を旅する。
1966年 パリに定住を決め、アリアンセフランセーズに通い、フランス語の学習を始める。
1967年 大阪万博繊維館内インスタレーション。
1968年 パリのデザイナー・スタイリスト集団 “Mafia”に参加。    
1970年 高田賢三のブティック・jungle jap 設立に参加。
1971年 パリ6区bd.Raspail にテキスタイルデザインのアトリエ・アツコ設立。 イタリア・ビニ社、イタリア・カントーニ社、 イギリス・リバティー社、東京・三菱レーヨン、京都・幾久繊維、京都・丸増、などと契約。
1972年 一年間限定で、ロンドンカルチャーを体験するために、アトリエをロンドンに移す。
1978年 日本「studioV by IRIE」設立に際し、ファッション・ディレクターとして参加
1983年 入江末男のパリのブティック「IRIE」設立に参加。
1989年 有楽町西武で開催された「Liberte KENZO」高田賢三展のアートディレクター。
1999年~2016年
フォンテンブローの森を通り抜けて30分程のフランス・ブルゴーニュ地方の農村地帯に セカンド・ハウスを購入。 築200年の家を土地の職人達の手を借りて、自分でも金槌を片手に改装。
1.200平米の土地に花壇を作り四季折々の花を育て、果樹園・野菜園で無農薬のフルーツ・野菜類を育てる。その新鮮な収穫物を車に満載してパリに持ち帰り友人達に配る生活を楽しむ。
2013年 パリで活躍する若い建築家・野田真紅さんに設計をお願いして自宅を改装。パリ左岸、1800年代の建物の一階、一坪茶室と石壁が特徴のミニマリズムの内装。
2017年 フランスの田園農村地帯の生活を十分満喫したので、セカンド・ハウスを売却する事を計画。
今後は自宅のあるパリ6区,Vavin, Montparnasse 地区にピンを立て、クレイジーな先人達が歩いた道をウオーキングして体を鍛え、本や新聞を抱えて陽の当たるカフェのテラスに座り、世界にアンテナを張りめぐらして、とんでもニュースに一喜一憂するシニアライフを満喫したいと思います。


安斉 敦子さんのご出品物はコチラ

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