INTERVIEW

『シアター・イメージフォーラム“Art and Cinemaシリーズ”』
『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』
中村佑子監督 スペシャルインタビュー



PASS THE BATONは映画とアートの美しい関係性に共感し、シアター・イメージフォーラムにて開催中の“Art and Cinemaシリーズ”では、 各作品を紹介させていただきながら、その作品にまつわる出品物を販売しています。
中村監督とも親交のあるPASS THE BATON代表の遠山正道が聞き手となり、作品や映画製作にまつわるお話、出品していただいた品物についても詳しくお聞きしました。




遠山正道(以下T) 中村監督とは、最初は文壇バーで共通の知人を通して知り合って、それから色々なところでお会いするようになったんですよね。
中村祐子(以下N) そうですね、共通のお知り合いの方も多いですよね。
T ところで、元々テレビ(業界)の人なんでしたっけ?
N 私、元々は書籍の編集者で、そのあとにどうしても映画をやりたくて塚本晋也監督の助監督について、今の会社に入ってからはテレビとかドキュメンタリーを主にやっています。
T で、映画監督第1作目が杉本博司さんですよね!?いきなり頂点いきましたか?って感じですよね(笑)
N そうですね(笑)。それも色々な偶然が重なっての事で、はじめて杉本さんにお会いしたのはテレビの企画だったんです。その取材を申し出る少し前にギャラリーを訪れた時、たまたま杉本さんが在廊されていて、これは今しかない!と、とにかく「撮りたい」という思いをお伝えしたら、タイミングが良かったのか光栄な事に話が盛り上がって、そのまま2時間ちかくお話させていただいていて・・・、「今までテレビは受けたことないけど、いいよ。」と承諾してくださったんです。それから、のちに映画を撮らせていただきました。
T へぇー、そうだったんですね。




-内藤礼と内藤作品への思い。

T今回の作品についてですが、内藤礼さんと内藤さんの作品『母型』は、最初はどちらへの興味からだったのですか?どうしてこの作品を撮ろうと思ったのですか?
N 内藤礼さんは、私にとって個人的にとても大切な作家さんでした。もともと最初は『世界によってみられた夢』という本と出会って、それが私にとって本当に大事な本なのですが、でもそれは1対1のすごく個人的な関係だったんです。直島の『きんざ』という作品も、出会った時に、あの宇宙に投げ出されたような圧倒的な孤独感とそれに対比するような土の暖かさ、優しさに包まれるような感覚に涙が止まらなくなってしまって・・・、でもそれも個人的な体験であって、ドキュメンタリー作品で多くの人に何かを伝えたい、という意識はまったくなかったです。
T それが、『母型』に出会って変わったんですね?
N 豊島の『母型』は、それまでとは違って、同じ空間に他者がいる作品だったので、内藤さんにとっての作品の広がり方のようなプロセスを感じたし、個人的にも「息つける場所」という風に、感じたんです。そしてそこからは一気に「知りたい。」と。私の場合、知りたい=(イコール)間にカメラを置いて「撮りたい」という欲求になるので、そのまま作品への意欲になっていきました。遠山さんは、『母型』をどうお感じになりましたか?
T 胃袋の入口のようなところに入っていく身体感覚として不思議な感じや、見たことのない風景、環境、時間に入っていく感じ、あれだけの巨大な空間とあの小さな水滴のころころ転がってはくっついていくコミカルな動きとの対比。見ている自分や他に見ているひとたちに意識が向いていくような、うまく表現できないですが、不思議な感覚の作品という印象ですね。




―中村監督にとっての『母型』とは。

N そうですね、気づくと、見ている自分も他のひとの存在も、あの水とまったく同じというか、すごく意味として平坦なゼロのところに戻される感覚、自分の存在をひりひりとあの空間の中で感じたときに、それってこの世界に生まれてきて居心地よくいる一方で、ふとした瞬間には「どん」と死のほうに突き落とされるというか、表皮1枚、薄い膜のようなもので恐ろしいものと接しているような、あの水たちもそうですが、なぜ産みおとされたのか、理由も目的も知らされずに集まったり、人生を歩んでいったりしなくてはならない、そして、やがては死に至る、その矢印を誰も否定できず逃れられない、その運命の共有のようなものを、すごくあの作品の中で感じたんです。それが今までは自分だけだったのが、他のひとたちの存在が水と一緒になって、あの作品の中で展開されているような。 そんな風に自分がこの作品から受けとったことを、ひとつの映像にするんだ、という。
T ふだん「死」というものを身近に感じることってありますか?
N 母の病など、個人的な体験もあるかもしれませんが、それを除いても「生の危うさと奇跡」のようなものは普段から感じていますね。日々「轟音」のようなものの側にいながら、奇跡的にこちら側に、いるというような・・・。そういう感覚というのはあります。
T そういう意味でいうと、この作品を見ることによって、今まで無意識とか無自覚だったようなものがあらわになってしまう、みたいなことはあるかもしれないですね。
N 自分が映し出される、という部分はあるかもしれません。
T 元々の質問に戻ると、中村さんはあの空間を自分が体験して、耳鳴りのようなノイジーな感覚とか薄氷を踏むような感覚とかを、もっと皆に共有したいという思いから、映画にしたいと思ったのですか?
N まず、「この豊島美術館『母型』という作品のことを知りたい、映像として撮りたい。」という思いと、「内藤さんがこの作品を生み出した時、どういうビジョンを見ていたのか、どういう世界を見ていたのかを知りたい。」という思いがありました。おそらく、ここまでの表現になるということは、私が感じたようなこととか本当に様々なことを感じながら表現されていると思うので。さらには「その先の私たち自身のことが知りたい。」という思いですね。生と死のこと、私たちの存在はどういう基盤のうえに成り立っているのか、そういうことを、この作品を通して、ある種取り出せるのではないか、というような。最初はもちろん内藤さんに興味があって取材を始めたのですが、途中で撮れなくなったこともあって、よりいっそうその先の興味に向かっていきましたね。




―「私が私たちになる。」
私性(わたくしせい)が開かれるとき


T 内藤さんが出ない、となったときは見ていてドキドキしましたよね。
N 私も撮れなくなったときに、一体どうするの?と正直思いました。本当にゼロだったし「私たちの世界はどうであるのかを知りたい。」というビジョンはありつつも、参考にできるものもなくて、ほとんど映画が自律的に動いているような状況で、その映画のゴールににじり寄っていくような作業。決まった出口はないし、そんな映画製作はありなのだろうか?という思いでした。
T 作品をつくっていく責任や最初の動機づけを信じながらすすめていくと、私はこういうことを「神様は行動におまけをつけてくれる。」という風に言っているのですが、最後はちゃんと収斂するんだと、私も見終わってホッとしました。
N そう言っていただけると嬉しいです。感想は人それぞれだと思うのですが、深く響いてくださる方にはご自分の体験と照らし合わせて観てくださった方が多かったので、それがすごく嬉しくて、副題で「私が私たちになる。」という宣伝文句を書いたのですが、自分の私性(わたくしせい)もそうですし、ひとりひとりの私性(わたくしせい)を強く言うことで、他のひとの私(わたし)にぽぉーんと飛べる可能性というのがあるのではないかなと。私性(わたくしせい)は閉じたものではなく、開かれたものなのではないかと。そういう広がりみたいな体験を、まさにあの登場した女性たちが体現していて、それぞれの過去や未来の姿であるような、みんながそれぞれの似姿のようですよね。 ひとりひとりは「自分」というものに閉じ込められているのだけれど、どこかの瞬間で一瞬の共感とか共鳴というものに大きな喜びを持つ本能のようなものがあると思うんですね。そういう体験を撮りたかったんです。




T この作品は、豊島の美しさをただ美しいという部分だけではなくて、苦しみとか恐さとか、ひとそれぞれの体験が持つ表と裏、みたいなものを行ったり来たりしていて、その対比のようなものがうまく捉えられていて、それがよりいっそう豊島の美しさを引き立てるような感じがしました。
N やはり生と死とか、健康と病気とか、境界がなく、そのふたつはすごく微妙な薄い膜一枚で保たれている気がしていて、人はふとしたときにおちいってしまう瞬間があって、奇跡的に今こうしていられることって普段はあまり感じないですが、それをひりひりとした感覚で感じたい、というか。そういう瞬間は皆さんの日常の中にもあるはずで、それを表現したかったんですよね。






『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』
監督:中村佑子
現代美術家・内藤礼を追ったドキュメンタリー。瀬戸内海の豊島にある代表作『母型』を巡り、現代に生きる女性たちの生き様も重ねあわせる。デビュー作『はじまりの記憶 杉本博司』がシアター・イメージフォーラムで公開され話題を呼んだ中村佑子の監督第2 作目。

『シアター・イメージフォーラム“Art and Cinemaシリーズ”』スペシャル企画




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