Interview

Atsuko Anzai -前半 東京編-


アートディレクター/テキスタイルデザイナーとして活躍してきた安斉敦子さん(Atsuko Anzai)が、世界中で集めてきた個性的な品々をPASS THE BATONへの出品してくださる事になりました。

1950年代、亀倉雄策氏に師事、その後グラフィックデザイナーとして独立、1964年にパリへ渡った安斉敦子さん。
パリへ渡ってからは、当時、世界のファッション動向に大きな影響力を持っていたマイメ・アルノダン率いるデザイナースタイリスト集団「マフィア」に所属し、スタイリストとして活躍、その後、高田賢三氏とKENZO、入江末男氏とIRIEを立ち上げ、テキスタイルデザイナーとして彼らをサポートしてきた彼女のドラマティックな人生に迫りました。

前半(東京編)、後半(パリ編)に分けてお届けいたします。


―前半 東京編―



―アートディレクターという職業が、まだまだ一般的ではない時代に、一番はじめにデザインの道に進もうと思われたきっかけはなんだったのでしょうか?

安斉敦子(以下「安斉」):閨秀画家華やかなりし頃の大正時代に、母は女流画家を目指して設立されたばかりの大阪美術学校の一期生として入学しました。後に関西洋画界のリーダー的存在となる胡桃沢源人さんとメディアのスターになった日本画家の融紅蘭さんとは仲の良い同級生でした。
母に似たのか幼い頃から絵を描くのが好きな私を見た母は戦争と子育てで中断してしまった自分の夢を私に託すべく、母は私を連れて胡桃沢さんと融紅蘭さんのところへ相談に行ったのです。ところが思いがけずお二人の答えは「もう今の時代に絵描きになんかなってもあかん!よっぽどの才能がないと食べていかれへん!」。せっかく良いアドバイスをもらおうと思って楽しみにしていた母は「へえ~」と言ったきり絶句。しかし、その後の胡桃沢さんのお話が当時14歳の私の人生の針路を決定付けたのでした。
胡桃沢さんは「それよりなあ、これからはデザインやでえ、デザインの時代になるねん、僕が講師してるドイツのバウハウスの教育を取り入れた大阪工芸高等学校の図案科の試験をいっぺん受けてみい、あそこはええ学校やで」と言うアドバイスで試験を受け、無事にパスしたのです。私は当時京都の祖父母の家に住んでいたため3年間越境通学をして、その学校でデザインの基礎を学んだのでした。




―東京でデザインの仕事をすることになったきっかけは何だったのですか?

安斉:高校三年生の夏休みに進学の相談のため東京に住んでいる家族に会いに行きました。ある日、姉にくっついてオートクチュールデザイナーの細野久さんのところへ行った時、美しい秘書の久米さんに「妹さん、何してらっしゃるの?」と聞かれたので「グラフィックデザインの勉強をしています」と答えたところ、久米さん「え~え、そうなの、私、亀倉雄策さんとお友だちなの、紹介しましょうか?」と。もう~、いきなりすごい話が舞い込んできて、あれよあれよと言う間に忘れもしない当時の銀座資生堂パーラーで亀倉先生にお目にかかりました。そしてグラフィックデザイナーとしてまだ高校も出ていないヒヨコの私に「卒業したら僕のアトリエに来るかい?」と言っていただいたのです。


―亀倉雄策先生とのお仕事で印象に残っていることはありますか?

安斉:資生堂パーラーで最初に会った時「大学なんて行ってもしょうがねえぞ、俺んちに来た方がよっぽど勉強になるぞ」と言ったのに、教えるような事は何もしてくれない亀倉先生でした。先生が誰かと電話で話してるのが聞こえる。仕事の打ち合わせだったり、友達と話していたり、笑ったり。ときには厳しい顔で本をパラパラとめくっていたり、弟子たちに渡すエスキースを描いたり破ったり。そして弟子たちにバトンタッチしてしばらくするとあの有名な1964年オリンピックエンブレムに代表されるようなシンプルで美しくドカーンと強いデザインが出来上がるのです。
そういう流れとストイックな環境の中から自然と学んだものがそれ以後の私の人生と仕事のベーシックになっています。 また親に対する反抗心のようなものも芽生えて来ていて、若しかしたらこの頃から外国へ行くチャンスを無意識にうかがっていたのかもしれません。




―日本デザインセンター時代は、どんな方とどのような日々をおくられていたのでしょうか?

安斉:1959年に亀倉雄策先生たちが中心となり設立された日本デザインセンターにグラフィックデザイナーとして入社しました。静かでストイックな亀倉デザイン室と打って変わって、日本デザインセンターには大勢の若い才能のあるクリエーターが参加して切磋琢磨していました。
当時の日本デザインセンターには、アートディレクターの田中一光さん、イラストレーターの宇野亜喜良さん、後にハーバード大学教授と視覚芸術センター所長になった片山利広さん達、あこがれの先輩たちがいました。
田中一光さんはお料理が上手で、お弟子さんや私のような後輩にもシェフ並のご馳走をよく作って頂きました。仕事も生活も何でも完璧主義で、遊びにも美学が有る方でした。
宇野亜喜良さんは、しわしわの紙やシミだらけの紙に、子供がいたずら書きをするように何かを書き始めたと思ったら、じょじょに大きい目をした妖精のような細い肩の少女が紙の上に浮き出てくるのです。この人は魔法使いか天才かと思ったものです。
パリに着いて暫くして、スイス・ガイギー社のアートディレクターをしていた、日本デザインセンターの先輩片山利弘さんご夫婦をバーゼルに訪ねて行きました。
片山さんは研究熱心な学術肌の方でした。片山さんの赤いポルシェでチューリッヒ、アルザス、ミラノなど美術館や建築物を解説付きで案内して頂きました。その後片山さんはハーバード大学の招きでボストンへ行かれてからも、お互いにボストン・パリを行き来して訪ね合ったり、ポルトガルやイタリーのバカンスに合流したり、日本デザインセンター以来の交流が今も続いています。
1962年には日本デザインセンターを退社して自分のアトリエを持つことになりました。






後半(パリ編)に続く…



Interview Atsuko Anzai ―後半 パリ編―


Vintage Collection from Atsuko Anzai in PARIS
PASS THE BATON LITTLE PAVILION
2017年1月18日(水) ~

安斉 敦子
Atsuko Anzai

1936年 大阪に生まれる。
1939年 京都の母方の祖父母の家で成長。
1952年 ドイツ・バウハウス式教育をしていた大阪市立工芸高校図案科で、グラフィックデザインの基礎を学ぶ。
1955年 父母兄姉のいる東京の実家へ移転。
1955年 日本のグラフィックデザイン界で主導的な役割を果たしていた、亀倉雄策氏に師事。
1958年 日本のグラフィックデザイン界への登竜門と言われた、日宣美展・奨励賞受賞。
1959年 デザイナーの亀倉雄策、原弘、田中一光らが中心となり設立された、広告・デザイン制作会社の日本デザインセンター設立と同時にグラフィックデザイナーとして入社。
1961年 植松国臣・石黒紀夫との共作「東京オリンピック開催期に於けるThe Japan Timesの1ページ広告に関する提案」で、日宣美展・会員賞受賞
1962年 日本デザインセンター退社・グラフィックデザイナーとして独立。
1964年 オリンピック東京大会組織委員会デザイン室で、東京都歓迎装飾基本デザインを担当。
1964年 5月5日・羽田空港よりフランス・パリへ出発。
1964年 パリ到着後、車を買って1964年~1966年迄の2年間、ポルトガル・スペイン・スイス・イタリア・ロンドンなど各地を旅する。
1966年 パリに定住を決め、アリアンセフランセーズに通い、フランス語の学習を始める。
1967年 大阪万博繊維館内インスタレーション。
1968年 パリのデザイナー・スタイリスト集団 “Mafia”に参加。    
1970年 高田賢三のブティック・jungle jap 設立に参加。
1971年 パリ6区bd.Raspail にテキスタイルデザインのアトリエ・アツコ設立。 イタリア・ビニ社、イタリア・カントーニ社、 イギリス・リバティー社、東京・三菱レーヨン、京都・幾久繊維、京都・丸増、などと契約。
1972年 一年間限定で、ロンドンカルチャーを体験するために、アトリエをロンドンに移す。
1978年 日本「studioV by IRIE」設立に際し、ファッション・ディレクターとして参加
1983年 入江末男のパリのブティック「IRIE」設立に参加。
1989年 有楽町西武で開催された「Liberte KENZO」高田賢三展のアートディレクター。
1999年~2016年
フォンテンブローの森を通り抜けて30分程のフランス・ブルゴーニュ地方の農村地帯に セカンド・ハウスを購入。 築200年の家を土地の職人達の手を借りて、自分でも金槌を片手に改装。
1.200平米の土地に花壇を作り四季折々の花を育て、果樹園・野菜園で無農薬のフルーツ・野菜類を育てる。その新鮮な収穫物を車に満載してパリに持ち帰り友人達に配る生活を楽しむ。
2013年 パリで活躍する若い建築家・野田真紅さんに設計をお願いして自宅を改装。パリ左岸、1800年代の建物の一階、一坪茶室と石壁が特徴のミニマリズムの内装。
2017年 フランスの田園農村地帯の生活を十分満喫したので、セカンド・ハウスを売却する事を計画。
今後は自宅のあるパリ6区,Vavin, Montparnasse 地区にピンを立て、クレイジーな先人達が歩いた道をウオーキングして体を鍛え、本や新聞を抱えて陽の当たるカフェのテラスに座り、世界にアンテナを張りめぐらして、とんでもニュースに一喜一憂するシニアライフを満喫したいと思います。


安斉 敦子さんのご出品物はコチラ

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